ガマの日記

”明るく・楽しく” 何かできる自分をみつけて

支援員だった頃④

支援員でいて楽しかった思い出は。

各種、さまざまなイベントを一緒に共感できることである。

コロナ化で利用者様は家族との面会ができない中で

利用者と支援員とで協力して安全な毎日を送っている。

 

支援施設には半年間だけ派遣で行った。

 

お誕生日会、ミニ運動会、映画鑑賞会、おいも祭り、クリスマス会、正月、等々

 

半年でこんなにもやった。

 

普通の生活ではできないけど、この施設、支援員であればできるのだ。

 

どのイベントにも参加させてもらったがとても楽しいし、安全に配慮されていて。

実行する直前まで、みんなで作戦会議やデモンストレーションを繰り返している。

本当にすごい。

 

ミニ運動会での出来事にこんな思い出があった。

徒競走的な種目の時に

とある声の大きい利用者が言った。

”私は歩けないし、違うことがやりたい。”

担当支援員は考えることなく、答えた。

”一緒にゴールでみんな応援して待ちましょう!”

その利用者は泣いていた。

 

確かに走れない人もいるし、目の不自由の人も。

たくさんハンデのある中で、できることを一緒にやる。

それこそが支援員であると改めて実感をした。

 

その後、その利用者は大きい声で元気に楽しそうに応援していた。

 

出来ないからこそ、ほかの出来ることに全力になれるなんて素敵だった。

 

その人は今も元気にしているかたまにふと思うことがある。

 

 

雑談①

まずは、いつもこんなつまらない記事をご覧いただきありがとうございます。

応援コメントもいくつかいただきました。

ほんと感謝です。より一層頑張ります。

これからも末永くよろしくお願いします。

 

話はいきなりですが、

皆さんはどんな音楽を聴きますか?

僕はとくには好きなアーティストとかいなくて、たまたま聞こえた音楽を調べて聞いて共感をしたら携帯にダウンロードをします。

 

そんななかで今個人的にブームな曲を紹介します。

ウルトラマンコスモス~君にできるなにか~”

ウルトラマンの内容は知りませんが、この曲は今の自分に当てはめて心の中でよく聞きます。

 

夢を追いかけて すべてが変わる

いつだって君を 心は見ている

愛はどこにある その答えから

君だけの勇気 かならず探し出せるさ

 

夢を追いかけて すべてが変わる

強くなる意味を 心は知っている

愛はどこにある 気づいたときに

君だけにできる なにかが探し出せるさ 

 

このフレーズがすごく好きです。

 

自分の今までの思い出が蘇ります。

 

そして看護補助員の今の自分にやる気・勇気をくれます。

人をサポートするのは簡単ではないのです。

そこでこの曲は自分に力をくれます。

ぜひ皆さんも一度はフルで聞いてほしいです。

 

今日はここまで(^^♪

 

 

支援員だった頃③

支援員は戦う。

利用者ともほかの支援員とも。

 

それは誰かのために戦う。

なんでもYESと答えているとそのうちこの人は何を言ってもやってくれる人になってしまう。

だから、適度に断ることもある。

自分とも戦う。本当はやりたい。でも…

できるけど、断らないと周りに迷惑がられる時もある。

 

僕はそんな環境の中で育ててもらった。

そんな施設では目標とする人はいない。

いたのは痛みを共感してくれる仲間が数人。

 

なにかあれば愚痴を言ったり相談したり。

一人で抱え込むことのないように仕事はした。

この業界では、抱えて負債が増えればゲームオーバーだと思っているから。

実際にゲームオーバーになった人を数人みた。

それは施設の支援員などではなく、介護や医療という世界を知らない人が軽はずみな気持ちできたものの蓋を開けてみたら、思っていた世界とは違った。

と言いやがる。そんな世界でも汗水流して頑張っている人もいるのにそんな無責任なことをいうやつがいる。

住みづらい世界なら慣れるしかないし、できるなら環境を変えてみてほしい。

少しでも楽しく仕事をできるように。

 

自分・環境が楽しくないと、利用者はもっとつまらないと感じる。

施設でつまらないというものは今後の生涯を施設で過ごす彼らにとってはすごくつらいものだと思う。

なので少しでも楽しく過ごしてほしい。

できることなら求めることにすべて答えてあげたい。

 

それらができないのが今で、実際の現場なのである。

 

初めての施設で初めて人が死んだ。

 

前日まで決まった時間に起床して、決まった時間にご飯を食べて、決まった時間にリハビリをして、決まった時間に寝る。そんな人と前日まで楽しくおしゃべりもした、リハビリもした。

 

そんな人が、12時間後の出勤時には死んだ。

 

その時にすごく後悔をした。

もっと何かできたのではないか。

もっとお話しができたのではないか。

もっと親身になれたのではないのか。

 

たくさん後悔をした。ほかの利用者も支援員も悔やんだことであろう。

 

翌日にはそこの部屋には本人が好きだった飲み物、写真、焼香台、たくさんの花があった。

すでに何人かの訪問があったようでたくさんの線香と利用者が書いた手紙などがあった。

 

人が亡くなるのは家のテレビがが壊れるのとはワケが違う。

テレビは買い替えがきくけど、人は終わり。

テレビはしゃべるけど、聞いてはくれない。

人とは違う。

 

明日もおはようって言えないのは本当にさみしい。

 

だからこれからは後悔が残らないように”おはよう”と”ありがとう”は伝える。

心と写真に誓った。

 

おはよう。

ありがとう。

 

写真の顔は穏やかに見えた。

 

さて、今日も頑張ろう。

 

メカニックだった頃①

僕は、国家資格を持っている。

それは、自動車整備士である。

でも、僕は正直、作業は苦手。

不器用の世界の王様だと思う。

本当に無理。

 

こんな人生になったのは、高校選択までさかのぼる。

 

頭は悪い。

 

テストは勉強のやり方なんて知らないし、当たって砕けるタイプだった。

毎回、居残りの残念生。

 

高校受験ではとりあえず受かりそうな高校の工業科の自動車整備士を育成するコースに何とか合格。

 

そこからこの人生は始まってしまった。

 

出来ることなら、高校の選択を時間をかけてしっかりやりたい。

今更言っても、仕方ない。

 

高校の過程では3級自動車整備士の資格取得に向けて勉強し、何とか3年間耐えた。

 

国家試験は不合格。

凄く悔しかった。

 

そもそもあまり勝負事なんで興味がない。

悔しいなんて感情は久しぶりだった。

 

当時は専門課程だったためにそのまま専門学校に進学することができる高校だったために進学をして2級自動車整備士のリベンジに燃えた。

 

そこから2年間勉学に励んだ。数学は皆無だった。

 

次の国家資格では、何とか合格。

 

自慢できる資格を取ったのだ。

 

他の人になんていわれても僕が自力で勝ち取った資格である。

リベンジマッチが終わった頃には、就職が待っていたのだ。

 

整備工場なんて夏場は暑くて冬場は寒い。

すべてにおいて弱音の僕には向いていない。

そもそも作業は嫌だ。でも、仕事をせねば。

 

学校に届いている求人票を見たときにディーラーや整備工場とわかるものは見ないことにした。

 

その中でも目に留まる企業があった。

名前だけではなんの会社か連想できないのだ。

 

僕は、下調べもせずにすぐに履歴書を書いて出した。

何とか内定しそのあとに職場見学を開いてくれたのだ。

地方に住んでいた僕には神奈川の都会の空気のがきつく感じた。

 

そこは大都会の中にある大型自動車量販店だった。

 

車にかかわるものはほぼすべて用品があり、整備をするための大きなピットがたくさんある。

 

それを見た際に

作業は嫌だけど、ここで働きたいと思った。

 

なぜだか思ったのだ。

 

これが始まりで終わりなのである。

 

支援員だった頃②

駆け出しの頃は利用者に言われたら何でもやった。

 

あれを取ってほしい、CDをかけてほしい、トイレに行きたい、ベッドに戻りたい、塗り絵をしたい、お茶が飲みたい。

様々な要望に対応した。

何も考えずにただただ言われたことを着実にこなした。

 

でも、怒られた。

 

できることはやってもらう、できないことに介入をする。

なぜなら、今やっている事は、その人のできることを奪ってしまう行為なのだと。

厳しい言い方で、”虐待”という。

改めて思った。確かにそうだと。

それ以降は、利用者が大変だと感じることに手を貸した。

できるようになるように手を貸した。

 

利用者以外にも先輩のいいなりにもなった。

何が正解で、不正解なのかわからずに慣れるまではやっていた。

 

ただ、僕は聖徳太子でも千手観音でもない。

一度に同時に言われてもわからないし。

あれもこれもと頼むのもかまわないが今やっていることがあるのに今すぐにとかは難しい。

断れば嫌な顔をする、場合によっては仲間外れにされる。

 

利用者より同じ支援員のほうがめんどくさい。

 

ましてや、頼むその人は、なにかやっているかというと、

一生懸命に携帯電話をいじったり、雑談してたり仕事をしているのか不明だった。

でも、もしかしたら僕ができない仕事を知らないところでやっているのかもしれないから何も言えない。

 

そう信じるしかなかった。

 

俺の仕事のモチベーションはそんな人のためにあるわけでもなく、

利用者のためにあるから。

その施設では約50人ほどの利用者がいる。

 

その全員の顔と名前、なんの障害があるか、

必要な介助はなにかを教えてもらった。

最初は、すごく不安や恐怖があった。

自分の介助したらケガさせてしまったり、場合によっては取り返しのつかないことになったり。

でもそんな不安は初日に消えた。

利用者は優しい人が多かった。失敗をしても笑って許してくれた。

中には、人見知りで冷たくされることもあったが、

時間が解決し、優しくしてくれた。

 

これだけで仕事が楽しく感じた。

 

今までの職場でとある社長が言っていた。

仕事は”明るく・楽しく・元気よく”と

明るくないと楽しくできない楽しくないと元気にならない。

それは相手の目にどのように映るか。

 

納得した。すごく納得した。

 

だから、その言葉だけはどこの職場に行っても忘れたことはない。

これはモットーなのである。

明るく、楽しく。これらを守っていれば元気は勝手に来ると思う。

いいことはみんなに伝染してほしい。

一人が元気であれば元気が伝染してみんな元気になるような気がする。

これは僕のエゴなのかもしれない。それでもいい。

 

ほかの支援員は何を思って利用者と接しているのか、だたやっているだけでは意味がないと思う。

利用者・支援員の変わらない毎日に抑揚をつけることで、その日を楽しんでほしい。

今日も楽しかった。そう感じてほしい。

支援をする側もされる側も。

 

支援員がつらい職だと感じないように

人を支えることが苦痛と感じないように。

 

今日はここまで。

また見てください。

 

支援員だった頃① 

障害者支援員・看護補助員になって約2年。

 

支援員の頃は右も左もわからぬまま、先輩に言われた通りのことをする毎日。

支援員になる前は全く違う業種で仕事をしていた。

はじめはメカニック、接客、保険業界、ガソリンスタンド。

どれも数字と言われるものに追いかけられ、ストレスばかりを増やす毎日であった。

心から望んでいた仕事ではなかった。

それでも人のために何かをしたかった。売上や利益なんてものを気にしないで。

 

保険の仕事をしていた頃、とある福祉施設が担当リストの中にあった。

話なんて聞いてくれないだろうと思いながらもその施設に行った。

そこでは、楽しそうにお年寄り達が外で玉突きをして遊んでいた。

心が汚れてしまった僕には、これで給与もらえるなんて凄く羨ましかった。

施設の職員と保険の話を終えて、そんな光景を見ていたら職員に言われた。

「なぜ、保険のお仕事をされているのですか」...

笑ってごまかした。僕もわからない。

 

これから先は別の機会にお話しをします。

 

なんだかんだで僕も医療・福祉業界で働くことを決意して支援員となった。

まず、学んだことは三大介助を学んだ

排泄介助、入浴介助、食事介助

初めは、どれも苦手で嫌だった。

 

排泄介助では他人の汚物を見ないといけないし匂いだってきつかった。

ときには、手につくことだってあった。

入浴介助では体の隅々まで洗わないといけないのだが、そこの施設では毎日入れるわけではなく、利用者にあらかじめ何曜日が入浴であることを知らされている。

といっても、1週間の間で2回の入浴日があり、何らかの理由で体が汚れた場合はその限りでもなく、入浴している利用者もいた。

そんな入浴介助で苦手だったのが、足の裏や麻痺などで動かせない手や腕を洗う介助が嫌だった。いくら手袋をしていても抵抗があった、動かすことのない手・腕は発酵しているかのように匂いがきつく、夏場は想像よりも過酷であった。

それらに比べて食事介助はあまり苦ではなかった。

でも、得意でもなかった。

食べながらしゃべる人もいれば、気に召さないと吐き捨てる人も、食べてる途中でどこか行こうとする人

みんながみんな、行儀がいいわけではない。

そして個人的には危険な介助の一つだと感じていた。

自分がすくったスプーンの食事が利用者の喉に詰まったら窒息してしまうかもしれない。

飲み物が器官に入ってむせて誤嚥性肺炎を誘発させてしまうかもしれない。

健常者の食事ではそんな危険性は高くはないと思う。

でも、不運にも事故は起きてしまい亡くなってしまう方はいる。

それが障害者や高齢者だった場合…

考えるだけでも怖い

なので、食事介助では常に観察を欠かしていけないと先輩に言われた。

 

苦手なことや危険なことばかりではあるが、嫌いではなかった。

むしろ仕事に行くことが何よりの楽しみでもあった。

 

今日はあの人どうしてるのか、今日はお通じでたかな、お風呂で暴れていないかな、ごはんちゃんと食べられたのかな。

施設にいないときはふと考えてしまう時もある。

それぐらい、人が好きだ。

 

施設で働くというのはその利用者の味方、もしくは家族にはなれないが、一番距離の近い親友になることだと僕は思う。

この考え方には賛否両論だろうが、あくまでも僕の個人的な考え方である。

 

今の世の中にたくさんの医療従事者や介護士生活支援員がいる。

それでも現場には人が足りない。

そんな中、僕は現場を離れないといけない。

少しでも、得た知識をほかの人にも共由したい。

 

これまでの二年間で感じたものを記録するために綴ろうと思った。

 

この記事はその経験の中の①である。

命のバトン

こんにちは!皆々様!

初記事の投稿です。暇つぶしにでも見ていただけたら幸いです。

 

この記事でのキーワードは ”看護” です。

 

そもそも、僕の本職は医療・福祉関連の職です。

障碍者に対する生活支援員や病院での看護助手をやっていました。

 

なぜ、そんなことをやっていたかというと。。。

 

実は、看護師を目指していました。

 

でも、実際に病院で働いてみると想像と現実は違いました。

 

それでも、現場の看護師さんはかっこよくて、尊敬をしています。

そんな人たちのサポートを生業をする看護助手を続けることにしました。

 

そんな僕の話はさておき。

 

今現在、世界的規模で話題になっている"コロナウィルス(COVID-19)"のニュースを毎日の様にテレビで見ると思うのですが。

 

その最前線にいるのは?

 

そうです。医療従事者です。

 

各種様々な業種がある中で、今現在不足しているのは

 

やはり、”看護師さん”です。

 

看護師さんになるにはものすごい勉強と現場実習を経験され、国家資格を取得しないとなれない、それほど重要な職種です。

 

その他にも、血を吐く様な努力をしないと取れない資格等があると思いますが、

 

看護師さんの資格はある意味、自分の命と引き換えに仕事に従事するものだと思います。

 

日々進歩する医療技術や未知の病気、複雑なケガをお医者様と看護師が二人三脚でそれらに立ち向かうのです。

 

ちまたを賑やかすコロナも例外ではなく!

 

新しい変異株が次々に発見され、新規患者が増えています。

 

今の医療現場では、患者数は増える。医療従事者は減る

 

このままでは、医療崩壊。。。 

 

といいますが、そこまでして命をかけませんか?とは言いません。

 

僕のモットーは”明るく楽しく”です。

 

何が言いたいのかというと

 

今の職場に不満がある、資格はあるけど現場に出るのが不安などなど。。。

 

そのような問題を転職サイトを使って自分の理想の職場を見つけてほしいと思います。

 

探せばたくさんありますものね!

 

そんな沢山ある中からいくつかを僕のブログでもおすすめ出来たらと思います。

 

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その他にも

 

 

 

他にもたくさんあります。

 

看護師以外にもありましたので参考までにご覧ください↓↓↓

 

 

みんなで作ろう明るい未来を

※なんか聞いたことのあるようなセリフですね